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家系図 SS

2018/09/11 (Tue) 14:48:02

由緒ある家系ですね。
私も家系を調査して家系図を作成しています。父方も母方も4~5代前までの名前が判明しています。
私の父親と母方の祖母が熊本県南阿蘇村の出身です。母方の祖父は秋田県の出身です。すなわち4分の3は熊本の血が流れているということです。当然職業は「百姓」です。佐竹という名は茨城県や秋田県の殿様佐竹氏とは全く関係がなさそうです。
私の子孫から見ればトータル8代前までわかるということなので、記録を残そうと思っています。

ところで肥後の男は「肥後もっこす」と言われ、「土佐のいごっそう」と並び称されtる「がんこ男」と言われています。私は軟弱ですが。

面白い話 - 木村覚生

2018/09/07 (Fri) 14:33:03

4月8日のクラス会で西岡君と再開した。西岡君から「森君の家も関ヶ原の戦いから15代続いているとの事だけど、僕も15代続いています、先祖は明智光秀の弟だった」と聞かされ、この件に関する(土岐を伝える
者達)という冊子を貰った。内容は明智光秀子孫の人達の我が家に伝わる伝聞、伝承だった。信長に謀反し
て本能寺、二条城で信長父子、森蘭丸、坊丸、力丸三
兄弟を死に追いやり山崎の戦いで秀吉に敗れ、落武者
狩りで命を落とした明智光秀ー日本の歴史の中でも有
名な本能寺の変の主役?だった人の弟の末裔が西岡君
で、殺された森三兄弟の叔父が僕の森家の始祖だっ
た。400年ぐらいの時が流れて明智光秀と森三兄弟の血
縁者の子孫が初等教育で机を並べていた。どうりで一
年生から同じクラスなのに会話が少なく、一緒に遊ん
だ記憶も無い(笑)。現在、西岡君は吉祥寺病院で現
役の精神科医として働いている、西岡君が頑張ってい
る以上僕も負けない様に頑張って働きます(またまた
笑)。

勉強 - 木村覚生

2018/09/06 (Thu) 14:42:30

今思うと、当時の義務教育カリキュラムはよく出来ていた。
小学校、中学校の教科を真面目に履修すれば、社会に出ても困らない様に出来ていた。又、道徳、社会的遵法もしっかり教育された。
高校、大学、専門学校で学ぶのに不可欠だった。
遊び呆けて勉強しなかった自分が悔やまれます、今の自分だったら優等生だったかも(笑)。
僕は子供がいなくて、義務教育の詳細は知らないけど、
ゆとり教育とかで、学習時間が減っている。社会的道徳も遵法精神も教えているのかしら?思想教育もされているのかしら?
今の若い人達を見ていると、色々と考えさせられます。

三丁目の益夫君! - 木村覚生

2018/08/01 (Wed) 08:19:56

きっと戦争の生き残りとして、自らに課せられた義務感と信念に基づき、我々の将来、日本の将来を厳しく見つめられておられた上でのものと信じておりますー少し装飾があると思いますが、その通りと思います。
先生の当時の歳はこの掲示板で知りました。すると、やはり思っていた通りです。8月15日が30歳前後で自身と近い歳の仲間を、相当数失っていたものと推察出来ます。終戦直前では多くの若者が日本の明日の為に、愛する家族の為に、理不尽とも言える死に方をしていました。そして終戦
(敗戦)。自由と権利の、み旗の元にアメリカ自由資本主義が席捲していた中で先生は何を見ていたのでしょうか?日本の文化、伝統、道徳が失われ、自由の言葉の下にアメリカンナイズされた当時の日本、理論破綻している共産主義やら社会主義を見つめて忸怩たる思いにかられていたのではないかしら?先生は寂しかったのではないかしら。先生の心の内を推量する事は難しいですが、僕はこの様に考えています。

佐久間先生に一矢? - 益夫

2018/07/31 (Tue) 17:39:23

先生の思い出の投稿では皆さんやはり佐久間先生の比重が高くなりますね。それは良きにつけ悪しきにつけ(?)、今では得難い体験をさせていただいた(強いられた?)からでしょう。当時の先生の価値観・教育方針の背景に関しては皆さんご推察と通りと思料致しますが、戦前・戦中の価値観を引きずったアナクロ教育の下で、日々随分痛い思いをさせられましたね。
ただきっと戦争の生き残りとして、自らに課された義務感と信念に基づき、我々の将来、大袈裟に言えば日本の将来を厳しく見つめておられた上でのものと信じております。
私も皆さん同様自らの人格形成やその後の行動指針等の中で、色々な影響を受けたと認識致し感謝しております。
ところで先生は教室を一歩出ると、また違った面を見せてくれていました。6年生のある昼休みにドッジボールに加わってくれた時の事ですが、私がセンターでキャッチしたボールを振りむきざまに投じたところ、見事(失礼)至近距離で先生の顔面を一撃。一瞬身がすくみましたが、破顔一笑「参った」の一言を残してコート外へ。顔面紅潮していたものの、流石に痛そうなそぶりを僕らに見せる事はありませんでした。
細やかながら皆さんの分も含めて一矢を報いた瞬間でした(笑い)。

担任の先生 SS

2018/07/31 (Tue) 13:47:46

私の1年生、2年生の担任は永松先生でした。かなりふくよかでした。確かにおでこパチンは痛かったことを思い出しました。その後結婚して名前が変わって、お子さんもできたような気がします。意外と若かったのではないでしょうか。
3年生以降は皆さんと一緒です。

佐久間先生は校長になったという話は聞きましたし、だいぶ経ってから亡くなったといううわさも聞きました。喜多見小学校の初代校長になったのですね。私の父親は大正9年生まれで、佐久間先生は私の父親よりだいぶ上だと思っていました。MFさんの言う通り49歳くらいだったのではないかと思います。
私の父親は軍隊経験があります。佐久間先生も戦前の教育を受けて、ひょっとすると軍隊経験があったかもしれません。戦前の雰囲気を残していたのでしょう。

篠田先生もかなりふくよかだったと思います。とにかく訛りがきつかった。どこの出身だったのでしょうか?
料理を習ったことは全然覚えていませんが、裁縫はよく覚えています。役に立っています。

佐久間先生の記憶 - MF

2018/07/29 (Sun) 11:50:41

木村覚生さんの投稿「担任の先生の事」を読みました。
その中の佐久間先生の事で・・・

佐久間先生は現在では考えられない位に威厳がありました。
従って、叩かれたり立たされたりした時は、
当然自分が悪かった結果だと思っていました。
先生のビンタは「痛い」を通り越して
むしろ痛くなく一瞬記憶が飛び、目から星状態となります。
先のクラス会で、西岡君も立たされた経験が
あるとの事ですので、男子は全員経験しているのでしょう。
女子でも何人もの生徒が立たされていたと記憶しています。
また、教室の後ろには壁に付いた台がありました。
丁度、立ち飲み屋のカウンターの様な台です。
ここが立たされた生徒の教材置き場になっていました。

私の記憶だと、確か先生は49歳と仰っていたような気がします。
そうなると、ご存命であれば104歳くらいです。
最後に、佐久間先生の情報を見つけました。
間違いなくご本人と思われます。

http://school.setagaya.ed.jp/swas/index.php?id=kimi&frame=frm4d9713b221808

  

相撲 - 木村覚生

2018/07/28 (Sat) 13:47:36

当時、相撲は人気スポーツだった。初代若乃花や柏戸、大鵬、輪島、朝潮などスーパースターが沢山いました。休み時間に砂場で相撲をとったが、大橋、鈴木益夫、塩谷は強かった。記憶の糸を辿ると運動音痴の尾関も頑張ってとっていた。技はなくて、頭を相手の腹に押し付けて、ただただ頑張っていた。尾関ってあまり付き合いなかったけど負けじ魂が強かったのでは?そう言う僕もいつも大橋に投げ飛ばされていました。悔しい!

鈴木信一 - 木村覚生

2018/07/27 (Fri) 21:13:55

信一は大人しく優しい感じの子供だった。記憶では早くにお母さんを亡くしていて、お父さんとお姉さんの3人暮らしだったと思う。お父さんは都庁に勤めていたと記憶しています。長谷川光男と仲がよかったのでは。
哀悼の意を捧げます、そして、再び逢う日まで束の間のサヨナラを。ーーさようならーー

家庭科 - 木村覚生

2018/07/27 (Fri) 21:02:13

3年生から家庭科の授業が開始された。教室を移動しての授業で、教室は特殊学級の真上だったと思う。何故、男子が家庭科を学ぶのか疑問だったがこの歳になり疑問は氷解した。ー篠田先生(言葉遣いに訛りが有った様な)指導のもとに最初に作った料理は小松菜油炒めと粉吹き芋だった。
又、雑巾も縫った、確か針運びが(運針抜い?)。なんだかんだ言ってもその後の人生に役にたっている。


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