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借金踏み倒しやめろ傳野栄次ちゃん - 傳野栄次ちゃん

2018/11/21 (Wed) 19:06:53

インチキオヤジ傳野栄次

富樫さんから投稿 - SS

2018/11/21 (Wed) 15:21:57

富樫さんから投稿していただきていただきました。昭和30年代の町の雰囲気が伝わってきます。今では考えられないようなのどかな時代でした。

校章入りロゴ - HP担当

2018/11/03 (Sat) 10:11:47

経堂小学校の校章入りロゴは経堂小学校のホームページから拝借して使っていましたが、編集の過程で消えてしまいました。理由がわからず悩んでいましたが、ふと技術的ミスがあることに気が付きました。再度やり直したら何とか復活しました。ご迷惑をおかけしましたm(_ _)m

南海ホークス - MF

2018/10/24 (Wed) 13:21:59

オゼパンさんの投稿を読んで・・・
僕もスタンカ逝去の記事を読みました。
そして、昔の南海ホークスを思い出しました。
個性のある選手が多くいました。
あと思い出す選手は、広瀬、穴吹、そして外人のハドリ。
やはり何と言っても中心選手は、野村でした。
長距離打者らしからぬバッティング。
すなわちバットを少し短く握り、
コンパクトなスイングでホームランを
量産していた姿は今でも忘れません。
懐かしくもいい時代でした。

仁丹ガム - 木村覚生

2018/10/23 (Tue) 18:30:59

当時、森下仁丹社が仁丹ガムを販売していた。森下仁丹はかの有名なTVドラマ怪傑ハリマオの単独スポンサーだったが、仁丹ガムの景品は野球バッジで、セリーグ、パリーグの12球団のバッジがあった。
何枚か集めたけど集めきらずに、何処かにいってしまった。当時から木村覚生の面影が僕にはあった。

青バットの大下弘 - 木村覚生

2018/10/23 (Tue) 18:02:39

川上の赤バット、大下の青バットと並び称された大下弘の息子が大学卒業まじかの僕の友達だった。六本木にあったエール、ケン、フォーというラジコン模型屋で知り合ったのだけれど、模型製作が巧みで自ら模型工房を立ち上げた。当時のラジコン業界では有名人だっが、親譲りの遊び人で、その内に音信不通になった。親が偉大だと子供はなかなか親を乗り越えられず、葛藤する。そう言う僕も親を乗り越える事は出来なかったけど、何とか世間に顔向けは出来る様になりました。

お詫び - 木村覚生

2018/10/23 (Tue) 16:44:16

暇を見つけては頑張って投稿していますが、僕はパソコン(ワープロ)が苦手で、文字の変換ミスや打ち込みミスが多いです。
あとで見直してミスに気付くのですが、投稿してからは修正ができないので、慌て者の森君という事で悪しからずお願いします。
そして、佐竹君が懸命に作ったホームページですので、簡単な文面でもいいので皆さん投稿をお願いします。

河の如くに - 木村覚生

2018/10/23 (Tue) 16:26:10

若い頃は朝が苦手だったが、この歳に成ってから目覚まし時計など必要性がなくなり、己の体内時計で6時には必ず眠りから覚める。然し、今日の目覚めは昨夜の深酒が祟り、何となくボーとしている。
直ぐに起きるのも気怠く、床の中でまどろみの余韻を楽しんだ。
昨夜来は雨が降っていて、風も少し鳴っていた。が、
外の気配は雨がやんでいる。春眠暁を覚えずを気取って、秋眠暁を覚えずとするかと考え、暫くウトウトして、はっとした。
今日は自分が幹事の小学校の同級会だ、そうだ、場所は京王多摩川だから散歩がてらに自転車で行こうと思い立ち、温もりを残した布団から起き出した。
トーストをかじりながら身支度を整え、10時に自転車で家を出た。
昨日迄の曇天は嘘の様に晴れ上がり、見上げる空は秋色に空高く澄んでいた。水神社の前で多摩川の土手に上がり、土手沿いに上流に向かった。
自転車を漕ぎながら左手に見る多摩川は、形容がし難いほど優しく大らかで、静かにとうとうと流れている。
確か源流は山梨県の笠取山に源を発している、一滴の雫が寄り添う様に集まり、やがて山肌を伝わり一筋の流れに成って、小川に姿を変えて、奥多摩辺りから河になり、秋川渓谷からは大河となり奥多摩湖からは多摩川と呼ばれている。多摩川は多摩丘陵から世田谷、太田を経由して東京湾を流れの終焉としている。
河の畔は護岸壁も少なく草木に溢れ、水面には鮎がその魚体美を誇示するが如く、鱗を秋の光に輝かせていた。
遠くには山が重なり、視線を遮る味気ない構造物も無く、天と地と河が織り成す情景は、普段の生活では見られない雄大なパノラマだった。自転車を漕ぎながら、今日集う同級生の事を思った。
皆んなこの河の様に生きてきたんだなと。
生まれた時は小さなひと雫でも、勉強して小川になり、社会に出て河になり、時を重ねて大きくな河となり、とうとうと流れ、やがては海にそそぎこみ、海は鷹揚に迎えてくれる。
皆んな穏やかな笑顔を見せているけど、永い人生で紆余曲折もあっただろう、辛い事は数々あって明日を迎えるのが嫌な事もあっただろう。悲しみは突然訪れ、涙にくれる日もあっただろう。
漱石ではないが、地に働けば角が立つ情に棹させば流されるを皆んな経験しているのだろう。
でも、同級生の今の人生は今日の多摩川の如くに、大らかで優しいく、とうとうとして流れて欲しいものだ、いや、流れている事を信じて今日は昼間酒を楽しもう。そんなこんなを考えていたら右手に京王閣が見えれきた、今日は気持ちが弾んでいる、仲間に心持ちを見られたら恥ずかしいから端っこに座ろう。

プロ野球 - SS

2018/10/23 (Tue) 14:48:36

スタンカ、懐かしいですね。
私は同居していたおじさんおばさんが熱烈な巨人ファンだったので、子供のころは巨人ファンでした。でも後楽園球場に行くことはなく、むしろ駒沢球場の東映フライヤーズのほうがなじみがありました。土橋、毒島、張本、山本八郎など個性的な野武士集団のようで、面白かったです。
その後巨人は、南海の別所毅彦投手引き抜き事件や、長嶋は南海、王は阪神に決まりかけていたところ強引にさらっていったことを知り、人気に胡坐をかいた「札束と強権」に嫌気がさしてきました。江川事件が決定打となって、強烈なアンチ巨人に転向しました。
巨人ファンの方はゴメンナサイ。

長嶋茂雄の豪邸が上北沢にありました。のちに中曾根康弘が住んでいたことでも有名だった家です。小学校低学年のころ、放課後長嶋の家に行くと、球場に行くためユニホームを着て出てくる。ファンがいつも十数人いて、あの甲高い声でファンと二言三言言葉を合わしてから球場に向かっていった。サインをもらいたかったけれど、ファンが大勢いて、もらう勇気がなかった。
ある時、近所の上級生を含めた数人で、思い切ってピンポンを鳴らしてサインをもらおうという話になった。上級生が勇気をふり絞って鳴らしたところ、「お手伝いさん」が出てきて、「今いません」と素っ気なく断られた。今考えれば当たり前だけれど。「今日は球場に行く日だから、いるはずだけど、本当にいないのかなあ?ちょっと庭を見てみよう」と上級生が言い、生垣に登り始めた。当時は竹を組んで作った生垣であった。すると「なんだ、いるじゃないか。庭でバットを振っている」と言ったので、「本当にいるのか」と皆で生垣を登り始めた。皆で登ったたまらず、生垣がバリバリと割れた。生垣は倒れはしなかったけど、横に通してある竹が割れたと思う。全員真っ青になり、一目散に逃げた。
それからしばらくは長嶋の家に近づけなかった。苦い思い出である。

スタンカ、死す - オゼパン

2018/10/21 (Sun) 13:30:19

《プロ野球の南海(現ソフトバンク)で活躍し、外国人投手初の100勝を達成したジョー・スタンカさんが15日、米テキサス州の自宅で死去したことが19日分かった。87歳だった》(朝日新聞2018年10月20日付朝刊)
 スポーツ面の「野球短信」欄に、こんな記事を見つけた。驚くほど小さな扱いだったが、僕にとっては大きなニュースだった。それは、数日前に6年4組の仲間たちとバーベキューを楽しんだばかりだったから、なおさらだ。
 小学生のころ、僕は南海ホークスの熱烈なファンだった。クラス男子の大勢は読売巨人ファンだったが、どこにも少数派はいる。藤縄雅樹は西鉄、長谷川光昭は東映、そして僕が南海。
 あのころの南海には、杉浦、皆川、スタンカという有力投手がいた。前者2人が下手投げ、横手投げの技巧派だったのに対し、スタンカの投げっぷりは2m近い長身を生かして豪快だった。
 そして、彼らの球を受けていたのが、知能派捕手にして長距離打者でもある野村。長嶋、王のように子ども受けするキャラではなかったが、僕は大好きだった。
 夕暮れどき、東経堂団地に近いドブ川球場で繰り広げられた草野球では、僕もマスクをかぶりたいと思ったものだが、叶うはずもなかった。4組の正捕手は、本田恭三ではなかったか。いま、ホンチに会いたい、と切に思う。
 ちなみに僕は、相撲では大関北葉山のファンだった。栃若でも柏鵬でもない。あのころから、反骨精神だけはあったのだ。


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